1993.11.30 29号
四天王奉鉢図浮彫
3〜4世紀。平山郁夫コレクション。左から2人目が(兜跋)毘沙門天(頭に一対の翼あり)。ガンダーラ地方出土。
(兜跋)毘沙門天は東西南北の守護を司る「四天王」の一人で、北方の守護神と仏典に記されている。だが丹念に古代ギリシアやローマの美術作品と比較していくと、その図像は古代地中海世界に源流が存在することが判明する。
(兜跋)毘沙門天は東西南北の守護を司る「四天王」の一人で、北方の守護神と仏典に記されているが、周知のごとく、わが国では財宝富貴を司るものとして信仰されている。 ギリシアの神々は多数いるが、(兜跋)毘沙門天像の成立に関係するのは富みや商業の神、ヘルメース(ローマではメルクリウスといった)である。ヘルメース神の図像の特色の一つは、頭部やブーツ(あるいはサンダル)に一対の翼が付いている点である(図1)。これは、ヘルメース神が死者の霊魂の運命を左右する力を有することを象徴するものと言われる。また、富みを司るヘルメース神の職能は、しばしば、羊を抱き抱える羊飼いの姿によって判明する。羊はアーリア民族の間では富みの象徴であったことが、造形遺物によって判明している。 このような富みや商業、さらに死者の霊魂を導くヘルメース神の図像は、アレクサンダー大王の東征により、中央アジア西部のオクサス河中流域のバクトリアに定着したギリシア人植民者によって、オクサス河からインダス河に至る地域へと伝播したのである。また、メルクリウス像はローマとインドの交易をとうしてパキスタンへと伝播した可能性もある。そして、この地方に移植されたギリシア・ローマ文化を継承したイラン系のクシャン族によって、ギリシアやローマの神々の像が中央アジアからインド亜大陸の北西辺境(ガンダーラ地方)にかけて知られるようになった。その実例は、2〜3世紀にこの地域を支配したクシャン朝の国王が発行した金貨や銅貨の裏面に刻印されている。その大半はイラン系(ゾロアスター教)の神々を表したものであるが、しかし、その図像はギリシア・ローマの神々のそれを借用しているのである。その一つにギリシア文字でファッローと記された男性神がある(図2)。 クシャン朝のカニシュカ1世とフヴィシュカ王が発行したコインに刻印されたファッロー神のタイプは9種類ほど知られているが、これはその一つである。手にカドゥケウス(ヘルメースの杖)を持ち、頭部に一対の大きな翼が付いている。ファッローは古代ペルシア語ではクワルナフというが、財産、幸運、幸福、王位、栄光などの人間にとって善なるもの全て包括した観念である。カドゥケウスや頭部の翼が証明するように、このファッロー像は明らかに、同じ職能を司るヘルメース・メルクリウス像をモデルとしている。特にヘルメース・メルクリウス神の頭部の翼が借用されたのは、イラン系のファッローという観念は鳥の姿で象徴されていたことに起因する。ゾロアフター教の聖典『アヴェスタ』によれば、ファッローは鳥の姿をして三度イマ(閻魔大王)のもとから去ったという。また、クシャン朝のコインでは、閻魔大王(イヤクショー)は右手に、この飛び去ったファッローの化身たる鳥をのせている姿で刻印されている。つまり、イラン系のクシャン族にあっては、ファッローは鳥で以て表されていたから、頭ないし履物に鳥の翼を付けたヘルメース・メルクリウス神がファッロー神を表すために選ばれたことが判明する。 このようにしてイラン系(クシャン族)のファッロー=ヘルメース・メルクリウス神の像がクシャン朝の王朝美術に登場した。これが、やがてガンダーラの仏教美術に取り入れられていった。ガンダーラの仏教美術では、「四天王奉鉢図」(表紙)や「出家踰城図」など釈迦牟尼の伝記を表した浮彫に登場する四天王の一人である(兜跋)毘沙門天を表すためにファッロー=ヘルメース・メルクリウス像が用いられているのであるが、それは、(兜跋)毘沙門天像の頭部に一対の翼(図3、表紙)が存在することによって証明される。仏典の『普曜経』にも、出家踰城の場面に「天帝(帝釈天)と毘沙門天が釈迦牟尼とその愛馬カンタカを前導する」と記されているので、この比定は文献的にも裏付けられる。このような「出家踰城図」に登場する、弓(矢筒)を持ち武装した(兜跋)毘沙門天像は今世紀初頭以来、釈迦牟尼の出家を妨害する魔王マーラと言われてきたが、それは完全に誤った解釈である。 このように(兜跋)毘沙門天像は、ファッロー=ヘルメース・メルクリウス像から一対の翼を借用して創造されたが、それは毘沙門天の出自がインド系の「財宝を司るクベーラ神」であったからである。かくして、ヘルメース・メルクリウス神はクシャン(イラン)系の(兜跋)毘沙門天に変貌したのである。そして、その図像が中央アジア(図4)、中国を経て日本に伝播した。わが国では頭部に翼が付いたり、或いは鳥を表した冠、鳥翼冠を戴く毘沙門天像を兜跋毘沙門天と別称しているが、本来毘沙門天には鳥の翼が頭部にあったのである。それを欠く毘沙門天像は本来の正しい姿ではない、すなわち、それがヘルメース・メルクリウス像やファッロー神に起源することが忘れられたのである。今後、毘沙門天像にお目にかかった時、たとえ頭部に翼がなく、その像容もヘルメース・メルクリウス神と著しく異なっていようとも(甲胃を着た武人像)、遠く古代ギリシア・ローマの文化に想いを馳せて戴ければ幸いである。 (金沢大学文学部教授) |
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| 桐生の町並み | 町屋の一列 |
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| 住宅への入口の門 | 土蔵とレンガ蔵 |
桐生の町は戦国時代末の天正年間に町立がおこなわれた。北端の桐生天満宮を起点に直線の中心街路が南にむけて引かれ、その両側に間口七間、奥行四〇間の町割りがなされたことを起源としている(ただ間口七間、奥行四〇間ですべてが揃っていたわけではなさそうだ)。この町割を下敷きとして現代に至るまで、さまざまな活動が行われてきた。経済的に成功すると隣の土地を買収して、大きな区画を造り上げる商人がいれば、裏側から敷地を切り売りして、小さな区画になってしまった所もある。それは近世初頭から現代までの約四百年間の歴史を物語る。
桐生にのこされている建築にはさまざまな種類がある。中央の通りに面した町屋(店舗兼用住宅)、裏側の住居部分、土蔵、敷地ごとの小祠、背後の工事建築などであって、それぞれ充実した表情をみせている。年代は幕末から明治初頭に出来たものがもっとも古く、多くは明治中頃から昭和初期までである。火事が比較的多く、最後の大きな火事が明治三十年代にあったので、多くがその後の再建ということになる。
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| 多目的ホールに改修されたレンガ蔵内部 |
一方、この古い町並みがのこる一帯から外に目を向けると、要所要所に大正〜昭和期の近代建築がのこされている。また西側に広がる傾斜地には昭和初期に開発された住宅地がある。ここでは少し洒落た洋間をもつ住宅が分譲されたようだ。桐生の織物業による蓄積は、周囲に多くの豊かな近代建築を造り上げたのである。
このように桐生の町の古いという点では際立っているわけではないが、近世から近代までのさまざまなバリエーションの建築があって、しかもそれが時代ごとによくのこされて、全体として心地よい調和を保っているということになろうか。それはまさに活きた建築博物館といってもよい。
建築は建ち続けることによってのみ本来の建築の文化を伝えることができる。建築の文化の重なり合いは、過去の町の歩みを物語り、その町らしさを演出する。現代建築はさまざまな事情のために、上質の建築でもせいぜい数十年の寿命しかない。最初から新陳代謝のための建築であることを余儀なくされている。しかし、戦前までに建った建築は維持管理さえきちんとするならば、百年や二百年もたせることはそう難しいことではない。過去の建築を上手に使うというルールさえ確立することができれば、緩やかな建築文化の重なったゆうゆうとした町へと再生する事だけは確かである。
町という広がりのなかに、活きた建築博物館を構想する、このようなことが多くの都市に実現するならば、私たちの生活や環境の質がどれだけ向上することか、想像するだけでも楽しい。
(工学部助教授・本館建築史部門主任)
人は言葉で語り、文章に書き、絵を描き、写真を写し、場合によっては楽器を使うことによって、自分の理解する世界を表現し、他人に伝えようとする。最近は映画やテレビ、さらにコンピューターによって映像と音のメディアを同時に利用した、いわゆるオーディオ・ヴィジュアルな手段によって多くの情報を伝えることが盛んである。そうした中にあって、地理学あるいはそれに近い分野の研究者は、地図としてまとめられたものを利用することや、自分たちが調査・研究して得た成果を、地図として表現することが多い。
地理学だけでなく、地表付近に分布している自然・人文・社会の諸現象を研究対象にしている研究分野においては、それらの諸現象の空間的な分布自体が興味の対象でもある。地球における自然の諸現象を理解するに当たって、地球上における自然の一様性を仮定して自然の仕組みを数式で記述することよりも、自然の多用性やその地域的な差異に興味をもっている人々が少なくない。そこでは個々の現象を記述し、現象に見られる地域的な差異を具体的に把握するためには、分布図を描くことが重要な仕事になる。また、地上における観察や観測によってデータを得るだけでなく、空中写真や衛生画像を利用することが有効な調査・研究手段となる。さらに調査・研究によってえられたデータも地図としてまとめられ、表現される。地図化する作業を通じて、いままでみえていなかったことが明らかになることも多い。さらに、文章によって表現できる以上のことを地図に描くこともできる。
地図には地形図、地勢図、地質図、植生図、気候図、都市図、(市街図)、住宅地図、土地利用図など、表現されている内容(主題)によって多くのさまざまな種類がある。また地図の縮尺(スケール)によっても異なった内容を表現することもできる。日本では、2万5千分1地形図や1万分1都市図などが作成され販売されて、自由に利用することができる。また最近では海外旅行が盛んになるにつれ、多くのガイドブックとともに世界各地の地図が輸入され、本屋さんの店頭に並んでいる。さらに世界的にはナショナル・アトラスと呼ばれる国勢地図帳の編集・刊行が盛んになりつつある。海外における研究調査に際しては、それぞれの国や地域のおけるこうした地図情報をうまく利用することが、調査を成功させるための基礎条件でもある。しかし世界的には現在でも地図は軍地理局のもとに管理され、大縮尺の地図は自由に利用できない国が多い。
個人的には、地図を利用する立場だけでなく、地図を作る立場になることもある。私は調査研究するときにさまざまな地図を利用するだけでなく、調査結果を地図としてまとめるために苦労し、論文や報告書の文章を書くより地図を描くのに多く時間を費やした経験がある。また、日本におけるある分野の研究成果を地図としてまとめる仕事に関与したこともある。たとえば、日本第四紀学会では創立30周年記念事業として、「日本第四紀地図」を編集し、東京大学出版会から1987年に刊行した。この地図は、日本における過去200万年間の地形・地質・活構造を100万分1図3葉にまとめ、先史遺跡・環境を400万分1図葉にまとめたものである。また1991年には活断層研究会が「新編 日本の活断層−分布図と資料」を編集し、100万分1「日本活断層図」3葉と300万分1「日本と周辺の活断層・地震分布図」1葉を作成して、東京大学出版会から刊行した(この地図と和文・英文併記の解説は「日本活断層図」として1992年に同じく東京大学出版会から刊行されている)。
この二つの地図の編集と刊行に関与して、論文や報告書としてさまざまなところに散在している情報を収集し、統一した形に編集し、地図としてまとめることがいかに大変であるかを教えられた。それと同時に、地図として表現されて始めて、埋もれていた知識が他の情報と共に生かされることも学んだ。地図の編集は、何を表現するための地図かという地図の目的を明確にすることや、そのために多量の情報を収集し、取捨選択して、どのような内容を地図に盛り込むかを決めることから始まる。こうした作業では、研究の在り方や研究成果の評価といった基本的な問題まで遡って議論しなければならないこともある。さらに線の種類や太さ・色の使い方など地図表現上の技術的な諸問題を解決するうえでは、芸術的なセンスが大切である。日本での地図作りは、おもに国土地理院、地質調査所、水路部などの官庁でなされており、大学の研究者が日本全体の地図をまとめる機会はそれほど多くない。上で述べた2回の地図編集の経験は、地図を作る難しさと共に、地図を作る楽しさを味わうことができた。
総合研究資料館の地理部門では、日本で出版・刊行された地図類の収集に心掛けているが、その活動は諸般の事情から限定されたものである。将来は大学におけるマップセンターとしての機能を充実して、学内・学外の研究者・学生が楽しく地図を利用できるようにしたいと夢みている。
(理学系研究科地理学専攻教授・本館地理部門主任)
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